H高校の夏服は、紺色の襟とダブルボタンが特徴的なオーバーブラウスに、紺のスカート、濃紺のミニハイソックスにローファーである。
 休日の部活動でも、身だしなみはきちんとしていないと、先輩から注意を受ける。外で練習するときだけ、首にタオルを巻くことが許されていた。
 時刻は朝の5時40分。井澤咲良は気合いが入っていた。
 咲良は誰もいない学校のグラウンドに立って、フェンスの方へ向かいトロンボーンを鳴らした。外で練習する方が、音が反響しないため、地の音で練習できるのである。ロングトーンで音出しをして、軽く練習曲を吹いてから、曲練に入る。
 首に巻いたタオルで時折汗を拭いながら、練習に励んだ。
 明朝でも、さすが夏だ。暑い。
 6時をもうすぐ回ろうかというところで、
「おい!」
 突然怒鳴られ、咲良はびくっとして楽器を下ろした。
 声の主は、正面のフェンスの向こう側にいた。真正面にいるのに、練習に夢中になっていて今の今まで気付かなかった。
 ぼさぼさの髪に無精髭、よれよれの黄ばんだシャツに短パン、サンダルというみすぼらしい格好。しかしながら、180cmは越えているであろうガタイの良い筋肉質なからだつきの男が立っている。
「うるせえよ! 今何時だと思ってるんだ!」
 男は咲良に向けて怒鳴る。目が血走っていた。
「す、すみません……」
 咲良はとっさに謝った。
「お前、なんでわざわざ俺の家に向けて練習するんだよ! ああ? 耳が痛いんだよ!! こっちは2浪して後がないんだよ! 邪魔なんだよ! お前等みたいな良い高校行ってる奴らにはわかんねーだろーがよ! 見下してんのか!? ああ!?」
 男はもの凄い剣幕だった。
「い、いえ、そんな……、ごめんなさい。向こうで練習します」
 咲良は頭を下げて引き下がろうとするが、
「待てよ! そもそもこんな時間に楽器ぶんちゃかならすことが非常識だろうが! ちゃんとこっちまで謝りに来い」
「え」
「耳が痛いっつってんだろーがよ! 慰謝料請求するぞこら!!」
 咲良は、内心「うわぁ……」とどん引きしていた。
「ちゃんと家まで誠意を見せに来たら、慰謝料は勘弁してやる。さっさと来いよ、ボケ。ほら早く! 走れよ!!」
 男がまともに話のできる相手でないことは、なんとなくわかった。
 せっかく朝練に来たのに……。すぐにでも切り上げて、練習に戻りたいが、どうすれば上手く収まるか? このまま怒鳴り続けられても迷惑だし……。……とりあえず、謝りに行けば、相手の気が済むのかな?
 咲良には、無視するという選択肢が思い浮かばなかった。
 咲良は、男の家へ謝罪に行くことにした。

 咲良は楽器を一旦教室に置いてから、その足で男の家に向かった。
 フェンスのちょうど反対側だっため、家はすぐに見つかった。 
 男は玄関の前で腕を組んで待っていた。
 咲良は、さっさと謝って帰ろうと思っていたが、
「なんだ、お前! 首にタオルなんか巻いて! それが謝罪に来る態度か! ふざけやがって! 朝っぱらからぶんちゃか鳴らすわ、お前の高校の教育どうなってんだ! こっち来いっ」
「すみませ――きゃっ!? え、ちょっと、やめてください!」
 咲良は腕を掴まれ、男に強引に家の中に連れ込まれてしまった。
 男の力は異様に強く、咲良は引きずられるようにして、一階の突き当たりの部屋に押し込まれた。
 その部屋には、病院にあるような格子のついたベッドがあった。まったく掃除がされていないようで、床にはティッシュや雑誌、参考書が散らばり、やや酸っぱい臭いがした。部屋中央に置かれたちゃぶ台の上には、模試の答案用紙らしい紙束と一緒にカップ麺の残骸と灰皿があった。窓にはヒビが数カ所入っており、カーテンはヤニで汚れている。
 男は咲良のタオルを奪い取ると、彼女の手首をベッドの格子に括り付けた。
 咲良はベッドの上に仰向けに寝かされ、身動きが取れない。そんな状況になって初めて、強い恐怖と身の危険を感じた。
「お前等、頭いいからって調子のってんじゃねーのか!?」
「……ち、ちがっ……そんなこと、ないです! ごめんなさいっ、ごめんなさい」
 咲良は恐怖のあまり泣きそうになった。
「何がごめんなさいだ!! そもそも朝っぱらからぶんちゃか楽器吹くことが非常識だっつってんだろーが!! お前んとこの指導者どうなってんだ!? H高でも所詮その程度なんだろーが! 俺が代わりに教育してやるよ」
 男は咲良の体に馬乗りになると、

「ごめんな――きゃはんっ!?」

 突然、咲良の腋の下へ両手の人差し指をつっこんだ。
 予期せぬ刺激に、素っ頓狂な声を上げる咲良。
 男はその反応にいびつに唇をゆがめると、こちょこちょと10本の指で咲良の腋の下をくすぐり始めた。

「やはっ!? きゃっ!? なにっ、えぇぇっ、きゃははははははははははっ!!? なにぃ~~!?」

 咲良は突然のくすぐったさにこらえきれず笑い出してしまった。
 薄いブラウスのため、くすぐったさが直に伝わってくる。
 男は鼻息を立てながら咲良の腋の下をくすぐりつづける。

「きゃはっはっはっはっはっは、何ぃいいい!? ホントに何ぃいいひっひっひっひっっひっひ、やめてぇ~~!!!」 

 咲良は必死に体をよじり、両足をばたつかせてもがく。
 しかし、手首の拘束と、馬乗りになった男の重みで、まったく抜け出すことができない。

「ホントにやだぁぁはっははっはっはっはは、意味がぁあぁぁっ、意味わかんないぃいひっひっひっひ、やだぁぁあっはっはっはっはっはっはっは~~!!」

 男は一心不乱に指を動かしている。
 親指をぐりぐりと乳房の裏に押し込まれ、アバラをしごかれる。

「いひゃはははははははは!!? やめぇぇぇぇぇえっ!!! 苦しいぃっ、ごめんなさいっ!!! 謝るからぁあはっはっはっははっははっはっっは、こちょばさないでぇぇえっはっはっはっはっはっはっはは~~!!!」

 咲良は自分の置かれた状況が理解できなかった。
 楽器の音量でいちゃもんをつけられ、謝罪にいったら、ベッドに縛り付けられくすぐられて、大笑いさせられている。
 さらに鼻息をたてながら無言でくすぐり続ける男の不気味さ。至近距離で顔を覗き込まれ、気持ちが悪すぎる。
「やだやだやだぁぁあっはっはっはっはっはっっは、腋ばっかりぃひひひひひひ!!! ごめんなさいぃいひひっひっひっひっひっひ~~!!」
 咲良が激しく笑いながらそう言うと、男は手を止めた。

「……げほげほっ!? えぇ……っ?」

 突然消えたくすぐったさ。脳が酸素を求め、深呼吸する。
 休息も束の間、男は両手を下方へずらし、今度は咲良の脇腹をもみしだいた。

「ぶふぉおおほほほほほほっ!!? ちょぉおお、急にぃあひはははははははははははははは!!!」

 再び襲う強烈なくすぐったさに、咲良は盛大に吹きだした。

「やめてっ……っ、っ、っ、ひぃぃ~~っひっひっひっひ!! 脇腹ぁああっはっはっははっはっははっはは!!!」

 咲良は、自分が「腋ばっかり」と発言したから脇腹に標的が移ったのだと理解した。
 しかし、ぐにぐにと脇腹を揉みほぐされる感覚は凄まじく、咲良はうまく喋ることができない。

「やう゛ぇでぇぇへっへっへっへっへっへ!! わきばらぁああははははははははは、こちょう゛ぁしやぁぁっはっはっはっはっはっはっはっは~~!!!」

 咲良は激しく首を左右に振って笑う。
 開きっぱなしの口からは涎が流れ出た。
 ベッドのシーツが汚れることは、男は気にしていない様子だった。

「いあぁあはははははははははっ!!! ほんとにだめぇぇえぇぇ、脇腹ぁぁああっははっははっはっはははっはは~~!!」

 くすぐったい部位を連呼することしかできない。
 男の指が、くりくりと横っ腹をえぐるようにくすぐってくる。
 それが、くすぐったくて、たまらない。

「やだひひひひひひひひひひひっ!!! こちょばぁああっはっはっはっはっは、息できないぃひひひひひひひひ、ぐるじぃ~~!!!」

 咲良は酸欠で涙を流した。
 頬が引きつって痛かった。

 男が手を止めたのはたっぷり数分経ってからだった。相も変わらず無言で、不気味だ。
 咲良は全身汗だくで、息も絶え絶えだ。
 男は体を反転させ、咲良の膝の上に座り直した。咲良からは大きな男の背中しか見えない。男の手元が見えないのが不安を煽った。
 ふと、咲良は足元が涼しくなるのを感じる。
 男は、咲良の両足からローファーを脱がしたのだ。
 そうだ。咲良は玄関で腕を掴まれ、靴も履きっぱなしのままベッドに縛られたのだった。
 汗だくになるまでくすぐられる間、ずっとローファーを履きっぱなしだった足は、蒸れていた。
 男は、咲良の蒸れた足から、無理矢理ソックスを脱がし取った。
 男は、咲良の方を振り返りながら、ソックスの臭いをすんすんと嗅いだ。

「ちょっ……やだっ……やめてくださいっ!!」

 咲良は顔から火が出そうなほどの恥ずかしさを感じた。自分のソックスが、得体の知れない男に臭いを嗅がれる気持ちの悪さ。咲良は男から自分のソックスを奪い取りたい衝動に駆られるが、両手が縛られているためどうすることもできない。
 男はさらに、ソックスのつま先を口に含んでみせる。
 咲良はさっと目を背けた。あまりの気持ち悪さに見ていられない。
 男はにやりと笑うと、咲良の顔にそのソックスを押し当ててきた。

「ぶへっ!!? やっ、くさっ……やだぁぁっ!!!」

 咲良は、あまりの臭さに、鼻水を噴き出してしまった。納豆とヨーグルトを混ぜたような臭いだ。さらに男の涎のついた気持ちの悪さで、吐き気を催す。

「やだぁあ……気持ちわるぃ……ふぇえ」

 咲良はたまらず泣きだしてしまう。
 男は、そのまま咲良のソックスを咲良の顔面に放り捨てると、再び背を向けた。
 そして、咲良の素足の両足の裏へ爪を立てた。

「ひっ!!? ぎぃいいいあはははははははははははは!!!? げほげほぉぉっ!? ……ぉっ、がひぃい、もおおおおおおあはははははははははっ!!!!」

 咲良は足指を激しく蠢かせて大笑いする。
 臭いソックスが顔に乗っているため、時折むせた。
 男は、そんな彼女の反応を楽しむように、ガリガリと足の裏を引っかき回した。

「やはははははははははははは!!!! ごめんなさいごめんなさいぃいいひひひひひっひひひひ~~!!! 謝ってるのにぃぃいひひひひひひひひひひひひ~~!!!」

 咲良は、時間も忘れて笑い続けた。
 そんな折、

「あ?」男は突然舌打ちして、くすぐる指を止めた。

 咲良は一瞬頭が真っ白になるが、すぐに男が手を止めた理由がわかった。
 男が首を向けた方角から、トランペットの音が聞こえていた。その音色は、昨日咲良が朝練に誘った夕奈のものに間違いない。
「……んだよ、まだ7時じゃねーか。ほんっとに、お前のとこの教育クソだな!!」
 男は吐き捨てると、ベッドから立ち上がる。
「ま、ま、待ってください!」
 部屋を出ていこうとする男に、咲良は慌てて声をかけた。
 男は無言で振り返った。
「……あの、わ、私は、どうなってもいいです。な、なんでもします……。なので、他の子には変なこと、しないで、……」
 言い終える前に、男がずいずいとベッドの方へ戻ってきて、いきなり咲良の腋の下をくすぐった。

「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!!!?」

「お前、何様のつもりで俺に指図してんだ!! 立場わきまえろボケ! お前は、朝っぱらからぶんちゃか楽器鳴らすなんて非常識なことをして、俺に迷惑をかけた。だから俺に罰を受けてる。そうだろうが!?」

「あひゃひひひひひひひひ、ごめんなさいぃひひひひひひ~~!!! ごめんなさぃいいっひっひっひっっひっひ~~!!!」

「いまぶんちゃかやってる奴もお前と同類! 非常識な馬鹿。俺が罰を与えて、矯正してやらねーとだめなんだよ!!」

 男はそう吐き捨て、部屋を出ていった。
 ひとり取り残された咲良の目に、涙が溢れた。


(つづく)


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(ここから作者コメント)

 こんばんは。ertです。
 そろそろ甲子園&吹奏楽コンクールの時期なので!